【もんちゃん】
1987年(昭和62年)生まれ。
上越市(旧吉川町)出身。
身長148cm。
高田北城高等学校卒。
SHOW!国際音楽エンタテイメント専門学校卒。
新潟県立自然科学館ボランティア。
萱森直子先生に師事し、瞽女唄(ごぜうた)を勉強中。
機能不全家庭で育ち、虐待・貧困・いじめ・適応障害を経験。神経発達症疑い。日常のつらさを歌や演劇に助けられた経験を元に、世の中の生きづらさに向き合い、日々打開策を模索する。
【保有資格】
子ども発達支援専門員 初級認定講師
ビジネス著作権検定 上級
認定ハラスメント相談員Ⅱ種
食品衛生責任者
【よくやること】
役者、ナレーター
イベント企画、ファシリテーター
作詞作曲、仮歌、配信
お茶会、もぬ飯会
【趣味】
テトリス
音ゲー
ピアス作り
紅茶
コウペンちゃん
【おいたち】
クラシックギターとエレクトーンのある家庭で育つ。保育園年少時、お遊戯会のミュージカルにドハマり。テンションが上がり過ぎて、保育士さんに「静かに」とたしなめられる。音楽番組の歌謡曲に合わせておもちゃのマイクで歌う日常を送る。年長時、パネルシアターで担当したナレーションが自分に向いていると気付く、才能を自画自賛。卒園証書授与式で、「大きくなったらうたのおねえさんになりたいです」と発表、今に繋がる道筋をこの頃既に確立。
小学時代、ピアノ教室に通う姉についていく。合唱部ではピアノ伴奏も担当(但し、独学)。七夕や文化祭で披露したお芝居に快感を覚える。卒業式での呼び掛けも好き好んで長文に立候補する。童話コンクールに何度か応募する。クラスメイトから誘われ漫画を描き始める。絵が死ぬほど下手くそで、途中からあらすじ担当になる。関係ないけど副学級委員長ばっかりやる。5・6年生の頃に、二泊三日の地域子ども交流会なるものと出逢い、レクリエーションを行う「ジュニアリーダー」のお兄さんお姉さんに憧れる。この原体験がのちの活動に繋がる。
中学時代、三年間連続で音楽祭でのクラス代表審査員を務める。ちなみにバドミントン部。いわゆる「からかい」を受けていたクラスメイトや先生が被害に遭っている場面に遭遇すると、授業中でも声を荒げて注意する(空気を読めていないが故の行動)。クラス担任で生徒会顧問だった20代の先生に喧嘩を売ったり、個別面談で先生からクラスの相談を受けたりする(先生もどうかと思う)。保健室登校だった別クラスの緘黙症の女の子の元へ、交換日記を提案したりしてなぜか毎日通う。別クラスなのに先生から「このプリント渡しといて」と頼まれるなど(なぜ同じクラスにしてくれなかったんや先生…)。一方、同じクラスでいじめを受けていたクラスメイトのヘルプを無視してしまったことを未だに思い出す。まだ「オタク」という言葉も知らなかった頃に、クラスメイトからオタクの知識を叩き込まれる。声優さんにハマる。この頃から自分の家庭がおかしいことを自覚し始める。泣きながら担任に話したことも。
高校説明会で演劇部の活躍を知り急遽進路変更、進学校だった地元の高校へ、猛勉強して滑り込み入学。合格発表で号泣。いちゃもんつけられるのが嫌で部活動は父親には内緒。門限が早かったので部活動はいつも途中まで。宿泊を伴う県大会へは行けずお留守番だった辛い思い出。一時期、同期から陰で変なあだ名を付けられハブられてたりもする(年頃は難しいね)。家庭で警察沙汰になって、包丁片手に弟を守った事件などもあり、どこか強くなる。担任が、たまたま新潟市に行くついでに専門学校の体験入学に連れてってくれる。これが縁で、入学を決意する(法律系の専門学校との二択で悩んでいた)。担任からは「数学の点数が高過ぎるから大学に行かないのはもったいない、センターだけでも受けてくれ」と言われる(平均点とか知らんがな)(なお、この年の日本数学オリンピックでは準合格を決め、理系の大学への自己推薦資格を持っていた)。作詞作曲もこの頃始める。ガラケーに直接吹き込んだり、「J研」に投稿したりする。
父親の猛反対と嫌がらせを押し切って、専門学校の俳優コースに入学、一人暮らし。地元ラジオやテレビの生放送での番組制作、出演を経験する(でもここでも若干ハブられたりする)。授業で講師のアナウンサーさんから「あなたアナウンサー目指したら?」と言われる。クラスメイトからは「歩くアクセント辞典」と呼ばれる。仲良くなった各学科のメンバーを集め、演劇やラジオ風トーク、歌を交えた自主企画「本気馬鹿(マジバカ)」シリーズを手掛ける。先輩方からたくさんダメ出しを受け、企画のノウハウはここで得る。自作の曲もここで披露している。「さくらもみぢ」と「星乃座」はこの頃から使い始める。先生からの推薦で、にいがた総おどり古町会場のMC担当。イッセー尾形さんの演出家による演劇WSや、政令指定都市記念ミュージカルに出演で、のちの活動に繋がるたくさんの人たちと共演を果たす。あれよあれよと縁が繋がって、万代市民会館に出入りするようになる。これがかの有名な、バイト先の常連さん物語である(興味がある方は個人的にどうぞ~)。ラジオステーション学科に転科、卒業。自分は役者に向いてないなと思った矢先、人生で最大の恩師と出逢う。演劇を続けることになる。
20代前半、りゅーとぴあ主催市民ミュージカル参加も、体調不良で挫折。しかしここでもたくさんの出逢いに恵まれる。地元FM局で制作スタッフとして働く。主に昼間の生放送を担当。深夜番組にも準レギュラーとして関わる。自分や知り合いの舞台の宣伝もさせてもらう(ここでの思い出は多過ぎるので割愛)。工作教室のボランティアを始める。子どもたちと触れ合う機会を得る。引っ越した先が偶然にもシアターent.の近くだったりする。その後、カラオケ会や浴衣を着る会やノルマのケーキを消費するための12月生まれ生誕祭をやったり、木を切って楽器を作ったり、配信をやったり、数々の社会人演劇、市民ミュージカルに出演させていただく。
現在は、多様な人々の居場所づくりをするべく、事務所として自宅を開放する準備中。エムアセの作業を手伝ってもらったり、気軽に相談やお茶をできるような、或いは、観劇やLIVEの合間に時間をつぶしたり、会議や打ち上げをしたり、展示スペースにしたり、飲み会帰りの人が泊まったり…できるような拠点を目指す。便宜上、「お昼寝屋さん」と呼んでいる。